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セルフネグレクトとその回復-自己への関心の欠如-

セルフネグレクトとは?

WIKIでは「セルフケア」の欠如と書かれていますね。要するに風呂、洗顔、掃除、ゴミ出しなど自分自身を快適に保つセルフケアができなくなるという行動面での状態像で定義されています。全く正しい定義だと思います。何しろ私がこれでしたから。ビール缶やゴミが転がるゴミ部屋でダニだらけの布団に寝ているだけの生活が一年以上続きました。では、心理面では?

ビール缶を潰してるのが偉いです。
私の2年ものの汚部屋の状態から推計するに、10年もの程度でしょう(ソムリエ)

自分に対する関心の欠如

私は「自分に対する関心の欠如」が心理面でセルフネグレクトを定義づける概念だと思っています。自分であることが苦しすぎて、自分のことがどうでも良くなってしまう。どうでも良いからセルフケアを行わなくなる。こんな風に考えています。

哲学者のハイデガーは自分に対する関心を人間の意識の基礎をなす要素として定義しています。そして、それは自明なものであるとして描写します。セルフネグレクトの真っ只中、このハイデガーが言う自明な自分への関心がない状態をとても不思議に感じていました。ハイデガーは有るはずのものが無いという欠如の状態こそが、有るものを際立たせるとも言うのですが、まさにこれでした。

以前の自分が異星人のよう

以前の私は当然の如く風呂に入ってました。歯も磨きますし、掃除だってする。何となく外に行きたいという理由で外出したり。セルフネグレクト中の私には、これら自分の以前の行動が根底的に理解不能でした。何故、以前の私はそんなことをやっていたのか? セルフネグレクトの私にとって、以前の私は地球の人間とは全く異なる原理で動く異星人のようでした。何で生活するのか全く分かりませんでした。ハイデガーが言うように、まさに自分への関心の欠如が自分への関心を際立たせる状態でした。だから、以前の私のように動こうと思っても動けません。彼はまるで別人で、自分とは思えませんでしたから。

ちなみにセルフネグレクトを抜けた今、当時の自分を思い出すとやはり意味不明です。戻ろうと思っても戻れません。動けなかった時、動こうと思っても動けなかったように。

無関心に溶ける苦しさと焦り

では、セルフネグレクトは苦しくないのかというとそんなことはありません。不潔極まりないですし、これじゃいけないのだって分かってる。突然、自分の今の異常な状態が強烈に怖くなることだってあります。しかし、そう思っても、一瞬でどうでも良くなってしまうんですね。無関心の内に苦しさや焦りが溶け去ってしまう。どうにもこうにも、どうでもよい。そんな感じでした。

「どうしたらこの状態から抜け出せるのか?」とか「動く理由」を考えようとするんですが、すべての理由が「でもどうでもよい」という無関心に溶けてしまう状態でもありました。問いと根拠が無限後退する感覚ですね。この世が消滅したら、それで困る当の人間がいなくなるわけで、だから、この世がなくちゃならない理由もないわけですが、本気でそう考える人間とは端的に話ができません。単に人間はそういうもんじゃないので。そういう「人間の理屈じゃない部分」が抜け落ちて、自分がまるでモノになったような感覚でした。

ただし、セルフネグレクトの時は複雑性PTSDの症状であるフラッシュバックはなくなっており、これはとっても楽でした。単にその時の自分はモノでしたから。また、不安と過覚醒による不眠もなく、よっく眠っておりました。自分に対する関心がなくなってるのでこれは当然ですが、回復につれてこれらの症状は戻ってきました。こっちは残念な当然です。

突然で謎の回復-散歩?-

当時、偶然一時的に近くに引っ越してきた友人が私のことを見かねて、頻繁に散歩に誘ってくれました。数ヶ月続いたのですが、何故か散歩は習慣化して、友人がまた遠方に帰っても続きました。続いた理由もよくわかりません。散歩は苦しかったことを覚えています。茫漠と歩いている中、フラッシュバックが何故か再発したからです。朦朧としてるか、フラッシュバックの地獄かの二択の散歩でした。それでも散歩を続けたのは、正直自分でもよく分からないのですが、単に散歩が習慣と化していたからで、苦しいだとか苦しくないだとかもどうでも良かったのだと思います。ほぼ毎日2-3時間は散歩をしていました。

自動人形のように習慣として散歩を続けていたのですが、ある春の朝、起きると暖かく晴れていました。突然私は「外に行きたい」と思い、同時にアレ?と疑問に思ったことをとても良く覚えています。驚いたと言うより妙に思った、不思議に感じたというのが正解かと思います。何しろ突然でしたから。「?」みたいな感じです。

妙な気分のまま、とにかく私は着替えて外に出て自転車に乗りました。日差しがこれでもかというくらい気持ちよく、強烈な開放感を感じたことを覚えています。数時間サイクリングは続き、スパゲッティを食べ、帰途につき、風呂に入りその日は就寝しました。以降、外出と洗顔、入浴だけはできるようになりました。私がセルフネグレクトから開放された瞬間でした。

関心とは?

ハイデガー御大
存在の時間は自己啓発書として最高峰。
読めばあなたも本来性に目覚めますぞ。
神のいないキリスト教みたいな思想です。

当会の中にもセルフネグレクト=自分に対する関心を失ってしまったメンバーがいるのですが、「散歩をすれば治るよ!」とは言えません。「長めに散歩した方が良いんじゃないか…」程度には言うのですが。

何故かと言うと、客観的には散歩して治ったと言えるのですが、主観的に散歩と回復がつながっていないからです。自分の中では脈絡なく「突然治った!」という印象しかないのです。

ハイデガーの存在と時間で、関心は人間に自明・前提として「ただあるもの」と描かれます。持ったり、操作の対象としては説明されていません。気分も大切な要素として説明されるのですが、それも同様です。関心って言葉は日常的に「関心を持つ」とかそういう能動的な使い方をしますが、セルフネグレクトを経験した私はそういうものではないと実感的に思っています。

では、今はどう考えているかと言うと、自分は生物の喩えで考えています。まず、それ自体意思を持ち、自分の思い通りにはならない(逆に人間はその意志に振り回される)。虐めれば弱るし、度が過ぎれば死にます。逆に大切にすれば治るかもしれないし、逆に丈夫になったりもする。子孫だって残す(関心だって伝播する)。そういうもんじゃないかな?と今は思っています。

我が家のクソ犬
始末に終えません。

私が主観的に散歩と回復のつながりが持てないのも、自分の内にありながら、自分ではコントロールできない別個の生物のような性質を関心が備えているからではないのかと思います。実感もなければ自覚もないのですが、幸運にも私は回復のプロセスを知らず識らずに辿っていたのでしょう。

今思うとセルフネグレクトに突入した時も予兆なく突然でした。突然、バキッと折れて、ひたすら帰って眠ることだけを強く欲していたことを覚えています。とにかく人間ってのは知らない内に傷ついているもので、その痛みも自覚できないまま、突然わけも分からず、動けなくなってしまうものです。常日頃から、自分に対して優しく気遣ってあげることが肝要かと思います。あまりにも当たり前ですが…