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当事者もくもく会
FOR 困ってる人

塩梅と加減のバランスのプラクティス-答えのなさに耐える力-(当会設立一周年記念総括)

2021/7/22をもって、当会は一周年を迎えます。なので、思うところなんかを総括してみようと思います。こういう機会がないとそんなことやりませんからね。当然ながら、主催としての立場でってことになります。

Let’s プラクティス!
Don’t think. Feel !!!

良かったところ

コミュニケーションの型の獲得

これが何気にでかいです。自分の中の一番の変化ですかね。私は好きなことを自分勝手にペラペラしゃべるのは結構得意なんですが、雑談が苦手中の苦手。そのくせコンビニの店員に常連扱いされて親しげに話しかけられたり、道端でおっさんによく話しかけられる体質でした。そういうのはマジ苦手で、気まずくなってはいけないと話しまくるんですが、緊張の中話すので(時には数時間)、疲れまくって、後から後悔するだとか、そんな感じの人間でした。今は結構普通にその手の何気ないコミュニケーションを楽しみながらできるようになりました。昔、雑談の得意な友人に「適当に思い浮かんだこと話しときゃ良いんだよ」ってアドバイスされ、「それができないから困ってんだ」と当時は思ったもんですが、これ本当でした。当時はこの「適当」って部分が分からなかったんですよね。今、この適当ってやつは言い換えれば「塩梅」や「加減」になります。これは言葉で定義できるものではなく、非常に感覚的なものなので、慣れるしかない。慣れってのは要は練習の結果であり、場数を踏むことでしか獲得できない代物です。自助会を主催するようになってからは司会として、一日4回「井戸端会議的コミュニケーション」をして、2週間に一回、自助会の司会をする義務を負うという、昔だったら地獄のような立場にいるんですが、今は逆に参加者がいないと薄く不安になったりするのだから、人間ってのは変わるものです。練習・プラクティスってのは、私の今のテーマになっています。

生活パターンが一定になる。

これは当会の推しですね。十数年来の昼夜逆転生活がほぼ完全に治りました。最低一日4回、スカイプのコールを鳴らす義務を負っているので、この部分は強制出家生活みたいなもんです。これもプラクティスと結果としての慣れの問題ですね。義務は人を潰すこともあれば、強くすることもあります。自分は義務に潰され、義務で蘇ったみたいなところもあり、物事は単純ではないってことは、俺がこの一年で学んだ結構大きなことだと思っています。反面、割と保守化した…という自覚(物事は簡単には動かない、すぐには変わらない)はあります。

いろんな情報をもらえる。

これは自助会の主催、または参加における非常に重要な要素だと思っています。そもそも、弊ONLINE当事者もくもく会自体が現メンバーの提案によって、行きがかり上、自分が主催を担ったことに始まり、現在まで続いているものです。リスティングによる生活管理や複雑性PTSDの概念とその対になるEMDRという治療法もメンバーから教わったものです。以前、スカイプ当事者研究で「偶発性の場」にいることが大切ってメンバーの意見があったんですが、私も完全に同意です。どんなに完全な自己認識だって、それは自分の視点であるということからは定義上逃れられません。対して他人ってのはコントロールできないものの代表であり、かつ、危険なものだったりしますが、だからこそ、自分が思っても見なかった視点が与えられることもあり、それが救いになることもあります。加えて、そのメンバーは偶発性の場にいるには強さも必要だともおっしゃっていました。リスクとベネフィットの塩梅とどの程度なら自分は耐えられるのかの見極め、これもプラクティスなんじゃないのか…?と思っています。

悪かったところ

結構厳しい感情労働。

具体や詳細は墓の下まで持っていく所存でありますが、自助会の運営は結構厳しい感情労働であります。まあ、他人ってのはわけが分かりません。全くコントロールできない。かなり感情的に振り回されます。かつ、この感情労働ってのは割り振りができるような代物ではありません。弊会の母体となった自助会の主催の方を「大変だなー」って傍から眺めておったんですが、ずっと傍にいたかった。メンヘラ系自助会の雲散霧消っぷりは界隈では有名ですが、そりゃメンがヘラっていたら、そうなるのも理の当然です。しかし、これも今は結構慣れつつある自覚があります。理由は他人の痛みや苦しみにいちいち忖度していたら、自分を維持できないという一点につきます。本当にこれだけ。複雑性PTSDでは主体性の回復が主題になるのですが、一種これは冷酷さ・エゴイズム・無責任の獲得なのだと私は思っています。健康とかレジリエンスとはずばりこれなんじゃないかと最近思っていて、非常に微妙な気分です。反面、病を得るというのは他者理解の門であり、本質的に悪ではなく、善の領域に位置する人間性の証ですらあるとも思えるようになりました。ただし、あまりに人間的過ぎると首をくくる羽目になるので、これも塩梅と加減のバランスでしょうな… ああ、うまくいかない。

自助会の存続の不安。

ここまで記事を読んでくださったならばお気付きでしょうが、弊会は私にとって、非常に大切なものであります。だから、常に存続の不安に取り憑かれることになります。これも結構厳しい感情労働ですね。大切なものができれば、失うことが怖くなる。当然であります。これに対しての対処は大切なものは大切にすることしかないと思っています。大切にするとは具体的には時間と労力を割くことです。これしかない。愛とはそういうものです。知恵を絞って、アイデアを出し、時間と労力を使って実現して、後はそれがうまく働いてくれることを願うしかありません。努力あるのみ、結果は残念ながら運任せです。

総括

結局自分がこの一年の自助会主催で学んだことは、答えなんかないということだったのかもしれません。答えってのは、困った事態に対して、しょうがないから出す賞味期限付きのものにすぎません。逆に言えば、生きるってのは心臓が止まるその時まで、次々と暫定的な答えを出していくことなのかもしれませんね。絶対に正しいことなんか分からない。だから、期限がつき、差し迫った問いに対して、正解と誤りが入り混じったその場限りの不完全な答えを次々と人は出していくしかないのかもしれません。それが塩梅や加減でバランスを取ることであり、そして、それには練習による慣れが必要なのだと思います。

ブッダや孔子は中道だとか中庸だとか明確性の欠片のない、なんていい加減なこと抜かす奴らなんだと思っていましたが、いい加減に言うしかなかったのかもしれませんね。見直しました。結構いいこと言ってます。あと、相手が言ってることを極大化して論破する中観帰謬論証派は本当に嫌な奴らで嫌いだったのですが、ある論理や原理の限界性を言いたかったのかもしれません。逆に言えば、それらの有効範囲をちゃんと見極めて有効活用しなさい、人間にはそれしかできませんよってことだったのかも。ごめんよ、ナーガルジュナ。

そして、ごめんよ、ブッダ、あなたは正しかった。やっぱり修行は重要です。