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当事者もくもく会
FOR 困ってる人

承認とトレードの突発スカイプ当事者研究
ーあるいはトラウマ・センシティブ・ヨガの話ー

誰がその苦しみを受け取るのか?

最近、突発スカイプ当事者研究をしました。突発スカイプ当事者研究とは、2週間に一度の定期で行う当事者研究ではなく、困った時に即応的に行う当事者研究です。困った時にすぐ行う方が当事者研究の本分に則ったものだと私は思っていて、これがやりたいがために、通常のスカイプ当事者研究を行っているようなものなので、主催としては感無量であります。

いい人でなければ、私の存在価値がない

テーマは参加者のTさんの強迫神経症や加害妄想です。

Tさんは最近、うなだれている車椅子のご婦人をターミナル駅で見かけたそうです。そのご婦人の周囲には数名が集まっていたそうです。おそらく、様子がおかしい人に気がついた人々が集まってきたのでしょう。

Tさんは、なので通り過ぎました。が、ここで強迫神経症が発揮されます。本当は私も心配して見に行くべきだったんじゃないのか? ご婦人の周りに集まっていた人たちは本当に心配して集まっていたのか? ただ、周囲に立っていただけじゃないのか? そういう思いにずっと囚われ、苦しくて突発スカイプ当事者研究を招集したわけです。

蓋然性で考えれば、間違えなくご婦人を心配して、周囲の人々が集まったのでしょう。人間の判断とはそういうものです。いちいち実証性を持って判断していたのでは生活が破綻します。その事はわかっている。でも、強迫神経症者はネガティブなありえない可能性を追ってしまう。そこから、どうしても離れられない。そんな苦しみでした。

そんな不合理な心の習性の源泉はどこにあるのか?という話になりました。「いい人でならなければならない。いい人でなければ、私の存在価値がない」そんなことが少なくてネガティブな可能性を追ってしまう心の習性の根源にあるんじゃないのかとTさんは話しました。

苦しみと救いの交換

これには私も覚えがあります。私は複雑性PTSD者です。突然フラッシュバックが起こってはもがき苦しむのは本当に日常茶飯事でした(今はそこに比べると大分回復しました)。一晩中眠れずに強烈な不安のまま朝を迎える。道端で突然フラッシュバックが起こり、パニック障害でその場でゼーゼー言いながら立ちすくむ。そんなことを十数年間繰り返してきました。

加えて、私は苦しいことを進んで行う癖があります。昔、修行僧のようなやつだと言われたことがあります。自分が損をしないと気がすまない。そんなところもあります。そういうところが強くでて、うつ病期間中に私の乏しい人間関係のほとんどを失ってしまいました。

なぜ、苦しむ私はわざわざ進んで苦しさを選んでいたのか? 

私は苦しみしか持たない。しかし、それだけは腐るほど持っている。だから、私はその苦しみと救いとを交換しようと考えていたのだと、今の私は思っています。もっと苦しめば救われるかも。まだ救われないのは、まだまだ苦しみが足りないからだ。この苦しみの先に救いがあるのだ。自覚はなかったのですが、私はそんな意味のわからないトレードを、誰かとしようとしていたのだと思います。誰とトレードしようとしていたのか、本当に分かりません。しかし、確かに誰かを要請しようとしていました。

Tさんは良い人間であることと存在価値を、私は苦しみと救いとをトレードしようとしていたとして、しかし、そんなトレードは成り立つものではありません。良かろうが悪かろうがTさんは存在し、苦しみの果に私が救われる可能性も根拠はありません。2つは相互に別の原理で存在する、無関係な事柄であると言えます。無茶なトレードの行き着く先は他人の奴隷であり、精神破綻しか待っていないでしょう。

少なくとも私には、実存に大きな欠落があるのだと思います。だから、この耐え難い欠落を埋めようとして、こういう呪術的な思考に陥っていたのだと思います。こんなことに気がついたのはトラウマ・センシティブ・ヨガを始めてからでした。

トラウマ・センシティブ・ヨガ

トラウマ・センシティブ・ヨガ(以下、TSY)とは、PTSD患者のために構築されたセラピーとしてのヨガの一種です。一言で言えば、トラウマティックな過去に適応しようとする体を、安全な現在に適応させるためのプラクティスです。自由な動き、自由なリズム、自由な呼吸で体を動かし、自分にとって快適な体の使い方・注意の向け方を発見し、習得することを目的としたヨガだと言えます。危機は去った、現在は安全なのだという感覚(フェルトセンス=意味ある感覚)を、ヨガ的なプラクティス(練習・実践)によって得ることが至上の目的にしています。

TSYはエクササイズ系のヨガとは違います。難しいことは必須条件ではありません。自分のなかの快、または不快を発見し、快は選択し、不快は捨て去るという観察や意識を重視するヨガです。発見と気づきの精神的なヨガであるとも言えます。小さな発見を積み重ね、自分の身体という自分の住む家を快適なものにしていこうというものです。

無意識レベルの心の癖

TSYの実践の中で発見したのは、私には自分の苦しみを動作レベルで無視する癖があるということでした。肩が痛くても動かない、呼吸が苦しくても背を伸ばさない。凄く小さなレベルですが、だからこそ無意識のレベルで、私には自分の苦しみに対処しない、無視するという強固な心の癖があると言えると思います。動作以上の行動のレベルでも、わざわざ苦しいことをしようとする、そんな役割を自分で選ぶ。そうしないと自分はいけないような気がしてしまう。損や苦しさを選ばないと激しい不安に襲われる。Tさんと同じような心の癖が私にもあると思いました。

TSYにより、自分の心と体の癖を自覚した私は、今はできるだけ不快は避け、快いからだの使い方を心がけています。TSYでは、センタリングやグランディングのような具体的な意識の仕方もテクニックとして学ぶことができます。すると、不思議なことに前よりはかなり感情的に安定し、自分の体が快適であると感じることができるようになりました。

理性や認知では動かすことができない感覚の部分を動かすのが、このようなプラクティス系の治療なのだなと私は思いました。考え(認知)からを変えることは結構難しいことなのだと思います。目の前にあるコップをガラスの集合体と人間が見なすのが難しいように、複雑性PTSD者にとって、自分の体が自分のものであると認識することはかなり難しいのだと思います。端的に言えば、自明性の地平をいかに変更するかという問題です。だから、ヨガ行者のように、練習を積み重ねる必要があるのでしょう。

物語に決着を付けるために

当事者研究の中で出てきた重要なもうひとつの論点は、けれども、承認の話が終わったわけではないということでした。それは忘れることはできない。人間には必要なものである。だから、承認から離れるのではなく、

今はそれに対処する道具はない、どうにもならない。故に、承認からその手前にある肉体や精神の快適さ、ある意味善人であることとは反対のエゴイスティックな快・不快の原理に軸をずらした方が良いのではないかと言う話になりました。

方法はTSYだけではなく、終わってしまったことを物語化して、自分の中で決着を付ける、ある種の認知行動療法のような事後的な納得のプラクティスも話の中で紹介されました。

この話はあまり広がらなかったのですが、私はこれも重要であると思っています。過ぎ去ってしまった、どうにもならないことの処理の仕方です。人は現在的な肉体を持っていますが、過去や未来にも時間的な広がりを持つ精神も同時に備えた存在です。肉体的ではない意味や物語、イメージのレベルで、私の場合は被害や苦しみの経験を位置づけを、あるいはどう昇華しなければならないのかを考えなければならないのではないかと思っています。これはプラクティスでどうにもならないようなものであるで、正直、現在不安になっていることです。多分、思想や宗教、哲学の領域であり、行動や生き方の問題なのではと思っています。

最近、現代ヨガの創造者のひとりであるアイアンガーの本を読んでいるのですが、結構面白いです。曰く、肉体は永遠の悟りを得るための、所詮滅びる運命の道具でしかないのだそうです。しかし、悟りを得るためにこそ、その道具である肉体は最高の状態でなければならないのだとも同時に言っています。また、元素を粗大と微細に分け、感覚を鋭敏にしなければならないとも言っており、ヨガの微細なるものに対して敏感な哲学においても、複雑性PTSDだけでなく、広く精神障害に対してヨガは有効なんではないかと思いました。自分に対する鋭敏な気遣いという意味では、当事者研究に通じるところもあるのも面白いですね。

かように私にとっては大変興味深い当事者研究であったわけですが、そんなことはさておき、Tさんからは自分にとっては重要な研究だったというコメントが後からあり、主催者冥利に尽きる当事者研究でありました。