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映画スワロウで考える抵抗としての病、病で始まる主体性

激しく結末までネタバレしています

こんばんは、主催のキタハラです。
最近仕事に本格復帰して一気に回復するかと思ったんですが、逆にしょんぼり状態です。ひたすら体の緊張が酷くて首が常に締め付けられてる状態です。日中は日中で怠くて、夕方には強烈な眠気に襲われるのですが、夜は目が冴えます。最悪です。この文章もそんな眠れぬ夜に書いています。

もう随分前になるんですが当会のメンバーおすすめの「スワロウ」って映画を見ました。毒親育ちで底辺労働者の主人公が金持ちのボンボンに見初められて結婚したはいいけど、人形扱いで人間としてぜんぜん扱われてもらえず、異食症に陥るというメンヘラ垂涎の映画です。

徹頭徹尾メンヘラ映画でメンヘラの楽しい仲間たちが、メンヘラ同士は惹かれ合うの法則でよく分からない登場の仕方をして、さりげなく主人公を助けてくれるたりするのも寓話的でいいんですが、精神的な病を無意識の抵抗としているところが俺にとっては新しい概念で良かったです。

冒頭に家畜が主人公を象徴するメタファーとして出てくるんですが、いくら丁重に扱われても家畜は家畜、最終的にはステーキにされちゃう運命です。主人公も同様、優雅な主婦ニートとして暮らしているわけですが、所詮は金持ち一族の子を生むためのお人形。松阪牛が丁寧に飼育されているようなもんです。しかし、主人公はそもそもメンヘラ底辺女だったわけでもとの貧乏暮らしには戻りたくない、でも、人形扱いは嫌。そんな無意識の葛藤が異食症として現れて、ビー玉だの画鋲だの食ってはひり出して、自分で自分を生み直すという呪術的奇行を繰り広げるわけです。

自分で自分を生み直すとはこの主人公、レイプによって生まれた子供なんですね。母親は宗教保守の土地に育った自生で堕胎ができなかった。そんな背景があります。ある意味お母さん偉いんですが、やっぱり人の子であって聖人ではない。上辺は宗教的信念で優しいけど、心の底では愛せない。そんなことは人は簡単に見通すものです。上辺だけ優しい母親も信じられない、金だけ与える旦那も信じられない。だから、彼女は生まれ変わりは望まず、自分自身によって自分を生み直し、愛そうとしたんですね。具体的には、自分の生まれ変わりで我が子でもあるうんこまみれのビー玉や画鋲をきれいに洗って、大事にしまっておくという奇行以外の何物でもないんですが。でも、これは出産にキレイに重なります。汚穢を産湯できれいに洗い流す。彼女はそうして欲しかった。でも、誰もしてくれない。だから自分でそうした。

この映画のいいところは理解のある彼とか全然でてこないところです。愉快なメンヘラ仲間はでてきますが。じゃあ彼女は何をするか? 全ての元凶である父親への復讐です。

ある日、主人公は自分の妊娠に気が付きます。しかし、これは呪いの子。金持ち一家の中で永遠に家畜として生きることを決定づける子供です。同時に彼女の異食症もバレます。で、精神病院送りになる前にメンヘラ仲間の手を借りて一家から逃げ出します。そして、なぜだかわ分からない、でも確実な意思を持って、服役を終え幸せな家庭を築た父親の元へ向かいます。父親と向き合う娘は自分自身の存在を人質に父親から謝罪の言葉を引き出します。

この映画がいいなと私が思ったところは異食症という精神的な病、明らかな不適応症状を無意識の環境への抵抗として描いている点なんですね。病んでいるのは環境の方で、病自体は健全な精神の危険信号なんです。この病が起点となって彼女は環境に相対し、抗うものとして、具体的に父親を脅しつけて、謝罪の言葉を引き出します。相手の哀れを誘うのではなく、対等な相手として取引を行うことによって主体性と成る。病が意思と行動の原基になってる点です。これが私には考えてもいなかった視点でした。

そして、主体性を得た彼女は旦那の子供を堕ろします。宗教に自分を任せて、自分を生んだ母親とは逆に。母親の罪に対する恐れが、彼女という呪いの子を生んだわけですが、その呪いの子は主体性を獲得し罪を犯すことになります。主体性故に罪を犯す。この辺の生命と人権の両立しない矛盾した感じもとても良かったです。

ちなみに主人公の義母、旦那の母親も登場するのですが、彼女も主人公と同種らしく、なんか仲間を欲しがってるらしいのも良かったです。もしかすると、適応することもまた辛いことなのかもしれません。

精神的な病というものは、かなりどうにもなり難い部類のもので、それ故、人を頼りたくなり、そこに支配と被支配が生まれがちなもんです。でももし、病が主体性の源ならば、負の輪廻を断ち切る希望も持てるんじゃないかと、病で眠れぬ夜に考えてみた次第であります。